「やっぱさぁ 携帯持った方がいいんじゃない?」
ツバサの声に、ハッと我を取り戻す美鶴。同時にそっとズボンのポケットに手を添えた。
「別にシャンプーなんていつでも買えるから急いでたワケでもないけど、やっぱまったく連絡取れないのってさ、取りたい方としてはちょっと困るよね」
別に、あなたと頻繁に連絡を取りたいとは思わないんですけど。
ポケットに入れていても、ほとんど違和感を感じないほどの薄型携帯。
この携帯の番号を知っているのは、たった一人だけ。
霞流慎二、その人だけ―――――
「酔ったりしませんでしたか?」
先に降りて手を差し伸べてくる慎二におずおずと腕を伸ばしながら、美鶴はコクリと頷いた。
こんな長距離を車で移動したことなどなかったので、自分が車酔いの体質なのかどうかもわからなかった。
小学や中学の卒業旅行で、バスに酔ったことなどなかった。だからたぶん大丈夫だろうという憶測のみで、車での移動を了解した。
「もし車が苦手なら、新幹線での移動でも構いませんが」
その言葉に車での移動を了解したのは、美鶴なりの配慮でもあった。
たかが一泊なのだからそれほどの荷物もないが、電車の乗り換えなどはやはり面倒だろう。きっと迷惑をかけてしまう。
「何度か休憩させてもらったから、大丈夫でした」
降りると同時に手を引っ込め、努めて冷静を装う。そうして、背後の建物を振り返った。
趣のある家屋だ。古い造りのように見える。きっと由緒正しき旅館なのだろう。
ふと、車が通ってきた道筋を見下ろす。
なだらかな下り坂の向こうに、人の賑わいが群れている。
「嵐山は初めてですか?」
車内で問われてそうだと答える美鶴に、慎二は少しだけ身を寄せた。
「早めに戻ってきて、散策してみるのも面白いかもしれませんね」
お付き合いしますよ と笑う慎二の笑顔に、なぜだか頬が熱くなる。
広い車内の後部座席。座るのは美鶴と慎二の二人だけ。どちらの体格も痩せ型なので、二人の間には人一人分の空間ができた。
その隙間が、美鶴に安堵を与えた。
もし狭い車内でぴったりと寄り添うことにでもなろうモノなら、それだけで目眩を覚えたに違いない。
それこそ車酔いしかねなかった。
――― なぜ?
「美鶴さん」
呼ばれて慌てて振り返る。
トランクに乗せてあった小さい手提げバッグが、運転手から旅館の者に手渡されている。
小汚いバッグに恥ずかしさを覚えながら、慎二に続いて旅館の敷居を跨いだ。
「お久しぶりにございます」
少し京訛りを含んだ、ゆったりとした声。
丁寧に頭を下げた女性が、これまたゆっくりと顔をあげた。そうして慎二を見、その後ろの美鶴と視線がぶつかって、もう一度頭を下げる。
「お待ち申し上げておりました」
そう言ってニッコリ笑う顔は、とても営業スマイルとは思えない。本当に、心底待っていたという心優しさが滲み出るような、暖かい笑顔だった。
これが高級旅館というモノか。
暖かいと感じながらも、素直にそれを認めることのできない自分。自嘲もしながら、向けられた笑顔に軽く会釈をする。
「着いたばかりで申し訳ないけど、またすぐに出なきゃならないんだ。部屋だけ案内してくれるかな?」
「おやまぁ すぐにですか?」
小さな日本美人を思わせる黒い瞳に、驚きを浮かべる。
「悪いね」
「い… いえいえ、まぁ 相変わらず霞流様はお忙しゅうございますねぇ」
少し呆れを含ませながらも、客の言い分に口答えすることもなく、女性は控えていた仲居たちに目配せをする。指示を受けて、一人が右手で奥へ促した。
靴を脱ぎ、あがる慎二の後ろから美鶴はヒョコヒョコとついていくだけ。
「あぁ そのままでよろしいですよ」
脱いだ靴をどうしようかと一瞬戸惑った美鶴の手に、白い手が伸びる。
「こちらで直しておきますので」
「は… はぁ」
所詮美鶴の知らない世界だ。言われた通りにしておくのがよいだろう。
そのまま靴から手を離し、ゆっくりと奥へ進む慎二の後を追った。
旅館と言うよりも、半分民家のような造り。もともとは人が住むための建物だったに違いない。
長い廊下を進むと、二人の部屋は襖を隔てて隣同士になっていた。
「お暑かったでしょう?」
仲居の一人が庭に面した襖を開けながら、声をかけてくる。
「京都へは、初めてですか?」
慎二と女性との会話から、彼がこの旅館を贔屓にしているのはわかった。だが、連れの美鶴は初めてだ。
慎二との間柄を勘ぐらず、当たり障りのない言葉を選ぶなら、このような会話が無難だろう。
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